2024年度(令和6年度) 古事記学会・上代文学会合同大会 大会案内 | |
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期 日 | 令和6年5月18日(土)、19日(日)、20日(月) |
会 場 | 18日(土)ノートルダム清心女子大学 岡山県岡山市北区伊福町2‐16‐9 JR西日本「岡山駅」下車徒歩10分 19日(日)岡山大学津島キャンパス 岡山県岡山市北区津島中3‐1‐1 JR津山線「法界院」下車徒歩10分、JR西日本「岡山駅」西口よりバス15分 (岡大東門または岡大西門バス停下車) ※土曜と日曜で会場が異なりますのでご注意下さい。 また、会場校へのアクセスにつきましては、以下をご参照ください。 ・ノートルダム清心女子大学:https://www.ndsu.ac.jp/about/access.html ・岡山大学津島キャンパス:https://www.okayama-u.ac.jp/tp/access/access_4.html |
日 程 | ・当日の進行によって、時間が前後する場合がございます。 ・古事記学会の理事会・総会の日程は、下記とは異なります。古事記学会の会員の方は、古事記学会からの案内も合わせてご確認ください。 |
― 18日(土) ― | |
理事会 | (午前11時~11時45分) |
講演会 | (午後2時~5時)ノートルダム清心女子大学 ヨゼフホール3階 300教室 開会挨拶 上代文学会代表理事 早稲田大学非常勤講師 工藤 浩
大会運営校挨拶
ノートルダム清心女子大学副学長 豊田 尚吾
講演会テーマ「古代の吉備・播磨」 吉備津采女の歌 ―柿本人麻呂と「われ」と― 駒沢女子大学教授 三田 誠司
『播磨国風土記』と文化圏 ―山の道・海の道、そして吉備
埼玉大学教授 飯泉 健司
吉備と倭王権
岡山大学教授 今津 勝紀
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古事記学会奨励賞・上代文学会賞贈呈式 | (午後5時~5時10分) |
総会 | (午後5時10分~5時50分) |
懇親会 | ノートルダム清心女子大学 学生食堂(午後6時~) |
19日(日) | |
研究発表会 | (午前10時~午後4時30分)岡山大学教育学部講義棟2階 5202教室 《午前の部》午前10時~ タカテラス・タカヒカル小攷 青山学院大学大学院博士後期課程 西澤 駿介
遣新羅使人らの旅程早稲田大学大学院博士後期課程 榎戸 渉吾
―休 憩―《午後の部》午後1時~ 「霞たなびく『春』」 ~巻十による景物の形象~ 同朋大学専任講師 山﨑 健太
史書に「諱」を記すこと ―『先代旧事本紀』の場合桃山学院大学講師 星 愛美
―休 憩―(午後2時40分~2時50分) 『日本霊異記』における「天」の表現 ―天皇との関係から― 和洋女子大学准教授 大塚千紗子 賀茂真淵と風土記 ―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に― 千葉大学教授 兼岡 理恵
閉会挨拶 古事記学会代表理事 学習院女子大学名誉教授 神田 典城 〇図書展示 5月18日(土)に、ノートルダム清心女子大学附属図書館特殊文庫資料展観(中央棟7階 特殊文庫閲覧室)を行います(午前9時30分~午後6時)。 |
20日(月) | |
臨地研究 | ※特にご案内は致しません。 |
大会研究発表要旨 | |
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タカテラス・タカヒカル小攷 西澤 駿介 『萬葉集』には「日の皇子」にかかるものとして、「タカテラス」と「タカヒカル」という二つの枕詞がある。「タカテラス」は天皇や皇位継承者、「タカヒカル」は天武天皇系皇子に対して用いられるという使い分けがあり、「タカテラス」は柿本人麻呂創案の新しい枕詞であると捉えられている(橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』等)。しかし、『古事記』における「タカヒカル」の用例と比較すると、『萬葉集』における「タカヒカル」の用法も、決して伝統的用法を踏襲したものではなく、人麻呂の時代に再創造されたものと見ることができる。 「タカヒカル」は、天武天皇系皇子とはいえ、事績の少ない長皇子や弓削皇子にまで用いられている。「タカヒカル」は皇子たちの出自に深く変わるものであったと考えられる。すなわち、「タカヒカル」は母を皇女とする皇子に用いられ、氏族を母とする皇子たちと明確に差別化するものであった。但し、例外として、藤原氏出身の五百重娘を母とする新田部皇子に「タカヒカル」が用いられている。これは持統朝においても藤原鎌足の血筋を特別視する意識の表れと見られる。なお、皇女を母とする皇子の中では舎人皇子については「タカヒカル」が用いられていない。舎人皇子が有間皇子を含む阿倍倉梯麻呂の血筋を引くためと考えられる。 天武天皇が后妃とした皇女は、すべて天智天皇の皇女である。『萬葉集』巻一・巻二、および巻三冒頭部が編纂されたと推測される元明朝において、「タカヒカル」は、天智天皇と天武天皇の両方の血筋を引く皇子を称える枕詞として機能し、首皇子(聖武天皇)への皇位継承を正当化するものとなったと見られる。また、首皇子の母が藤原宮子であることを踏まえれば、藤原氏出身の新田部皇子に「タカヒカル」を冠していたことも、それを一層強化するものであった。 本発表は、『萬葉集』における〈歴史〉の構築をジェンダーの視点を導入して、父系だけでなく母方の血筋の重視に注目して、『萬葉集』の枕詞「タカヒカル」を捉え直すものである。 遣新羅使人らの旅程 榎戸 渉吾 『萬葉集』巻十五・遣新羅使人歌群は、遣新羅使らの歌一四五首が概ね航程順に配列される歌群である。当歌群の研究史は、大濱厳比古が「実録風な創作(ドキユメンタリ・フイクシヨン)」(「巻十五」、『萬葉集大成』四)であると指摘して以来、歌群のもととなった資料の有無や実態が追求されがちであったが、近時、山崎健司が特定の編纂者の存在を想定せずに考察を進めたのは首肯される方向性である(「萬葉集の本文解釈学的研究」、『明治大学人文科学研究所紀要』八六)。 伊藤博は本歌群について「心情的には『妹』を、時間的には『秋』をモチーフとする虚構体」と述べ、「望郷係恋や旅愁を過剰に示す後向きの歌ばかり」と指摘する(「万葉の歌物語」、『萬葉集の構造と成立』下)。しかし、歌群中の当地の美景を讃める歌からは妹や秋への志向はうかがえず、伊藤が全体を覆うとする「後ろ向き」の思いは読み取れないように思われる。安芸国から周防国航行中にそうした歌が目立つのは、難波出航後しばらく経ち、気持ちのうえで余裕が出てきて穏やかな航海ができるようになったことを表すのではないか。 しかし、そうした穏やかな航海は佐婆海で逆風にあい漂流してしまうことで脆くも崩れさる。このトラブルを期に題詞には「悽惆」「悽愴」といった辛さを表す表現が目立つようになり、使人たちが旅愁を深めていく様子がうかがえる。そして、それは壱岐島で雪宅満を鬼病で亡くしてしまうことで決定的なものとなるのであった。このような読み方は山崎論にも示されているが、山崎論は考察の対象から冒頭の三十首あまりを除く方法をとる。しかし、今ある本歌群がどう読めるのかを考えるためには、一四五首を総体として捉える視点が必要だろう。 本歌群全体を見渡すと、本歌群は使人らの浮き沈みある旅程を表しているものと認められ、そのように一四五首を構成することで、遣外使が任地に向かう間に何を見、いかなる思いを抱いたのかを追体験できる作品として企図されたのである。 「霞たなびく『春』」~巻十による景物の形象~ 山﨑 健太 『万葉集』巻二十は「十二月十八日於大監物三形王之宅宴歌三首」と題して四四八八~四四九〇の三首を載せるが、それぞれの歌は明日に迎える年内立春において「鶯鳴く」或いは「霞む」「春の景」が実現せられる確信を歌う。 三首の歌群より一首隔てて置かれる「廿三日於治部少輔大原今城真人之宅宴歌一首(四四九二)」はその年内立春を過ぎた日付が提示され、その歌でも同様に「霞たなびく」ことが「春立ちぬ」という季節の把握の根拠とされている。「立春」を経たからには「春」でなければならず、「春」である以上「霞たなびく」ような確定的な「春の景」が現れていなければならないという観念の先行がこのような表現と題詞の現れようを可能にしている。巻二十は、そうした観念の結びつきが前提された上で読むことを求めるありようをしているといってよい。 しかし、巻三「夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首」に続く「悲緒未息更作歌五首」中四七三番歌では 佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし(四七三) など秋に「たなびく霞」が見え、巻八「秋雑歌」には憶良の 霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ(一五二八) もあり、「霞立つ、霞たなびく」ことが『万葉集』テキストを通じて「春の景物」として確定的に現れているとは言いがたい。 しかるに、巻二十が確定的な「春の景」として「霞」を扱うことのできる理由はどこにあるのであろうか。これを、同時代的な景物をとらえる感覚の問題に帰してしまうと、四七三の家持歌のありようなどを説明できなくなってしまう。あくまで『万葉集』テキストの問題として考える必要があろう。 本論では、巻十「春雑歌」内の歌の配列によって『万葉集』テキスト内に「春の景物、春の到来を確信させる景物」としての「霞たなびく」景が立ち上げられ、それを前提として以後の詠物を捉えていく読解を『万葉集』テキストが要求しているものと捉えることで、巻二十においても同様の前提が読解上要求されていることを説明する。その際に、西澤一光による『万葉集』の集蔵体論を参照しながら、巻七、八、九に続く巻十の位置を捉えたい。 史書に「諱」を記すこと―『先代旧事本紀』の場合 星 愛美 『先代旧事本紀』の本文は、『日本書紀』等の先行書のテクストを利用して構築されている。各天皇紀冒頭の記述が詳しく形式が統一されているのが特徴のひとつで、時には天皇の諱や在位年数など、『書紀』を超える情報が記載されることすらある。しかしながら、これらの情報の確かさには大いに問題があり、特に天皇紀冒頭に挙げられる「諱」の性質は他書と大いに異なるため、一考の余地がある。 『旧事本紀』は安寧天皇・懿徳天皇・神功皇后を除くすべての天皇条の冒頭で天皇の「諱」を挙げるが、その殆どは「諱御間城入彦五十瓊殖尊」のごとく、『書紀』に記載された天皇の尊号に手を加えたものである。「諱」とは一般に死者の生前の名または貴人の実名をさすものであり、このように尊号を「諱」とする例は上代文献中に類を見ない。これについては、平安期に「諱」の拡大使用があったとの指摘が夙になされているが、理由はそれだけではないと考える。『旧事本紀』における『書紀』所収資料の扱われ方などをみても、この「諱」は編纂の都合上強いて操作が行われた結果の産物であると考えられる。 そもそも『書紀』は殆どの天皇条において天皇の実名を「諱」として提示することをしない。しかし、『続日本紀』以降の六国史や『日本紀略』をみると、八世紀末以降、徐々に各天皇紀冒頭に「諱」として天皇の実名が明記されるようになっている。『旧事本紀』はこの潮流を受け、各天皇条冒頭に「諱」を記す形式たらんとしたために、『書紀』に記載のない天皇の「諱」を案出する必要に迫られたのではないだろうか。十世紀以降の成立とみられる『聖徳太子伝暦』にも同様に尊号を「諱」として挙げる例がみられることから、史書に「諱」を記す傾向および『旧事本紀』の手法が影響を与えた可能性が考えられる。 記述内容の不確かさについて、たとえば『旧事本紀』の自注をみると、注が付されていること自体が重視され、注内容の矛盾は放置されているような箇所も散見される。大胆な「諱」の案出のさまを考え合わせても、『旧事本紀』においては内容の確実性や整合性より、本文を所定の形式に統一することの必要性が重大視されていたと考えることができる。 『日本霊異記』における「天」の表現——天皇との関係から—— 大塚千紗子 『日本国現報善悪霊異記』(以下、『日本霊異記』)には「天」に関連する語が多く用いられているが、その位置づけは一様ではない。 小泉道は上巻序文における聖武天皇の大仏造立と陸奥国の黄金出土の逸話に「天」や「地」の語が用いられることを挙げ、これらが祥瑞思想を踏まえた表現であると指摘した。また、石井公成は人物の善行や功徳に感応する例から、「天」が本書全体の構造と密接に関わることを述べ、八重樫直比古は大神高市万侶の感応譚(上巻第二十五縁)に見える「諸天」の語が、義浄訳『金光明最勝王経』に由来するものと示唆する。これまでは『日本霊異記』における瑞祥の表現方法、説話の思想的背景から指摘がなされてきた。 注目すべきは、史実と関わる説話において「天」や「地」の語が重要な役割を持つことである。例えば、下巻第三十八縁の聖武天皇の遺詔では、天皇の遺言に従わないと「天神地祇」が災を下すとある。また、上巻第五縁には、排仏派の中心であった物部弓削守屋の行為を「天」や「地」が憎むという表現が見える。物部弓削守屋は謀反を起こして敗死するが、説話のなかでは、天地の神々から誅殺されたかのように語られている。結果として天皇が直接的に手を下す行為であっても、『日本霊異記』は「天」と天皇との結びつきを表現しているのである。このような例を踏まえると、「天」に関連する語は祥瑞思想の表現という指摘だけでは捉えきれない問題があるのではないか。 そこで本発表は、『日本霊異記』内の「天」に関連する語を整理し、その分布と使用傾向を把握する。なかでも謀反など史実に関わる説話を中心に、『日本書紀』や『続日本紀』を踏まえて分析する。史書の使用傾向を踏まえると、『日本霊異記』の「天」に関連する語は天皇の善政を保証し、謀反人への誅殺の正当性を揺るぎないものとする効果を持つ用語と考えられるのである。聖武天皇の大仏造立や遺詔において「天」に関連する語が記されるのはこのためではないか。以上のことから、本発表では『日本霊異記』が「天」と天皇とを結びつけようとする表現方法の一端を指摘したい。 賀茂真淵と風土記―『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章を中心に― 兼岡 理恵 賀茂真淵『文意考』は、いわゆる「五意考」の一つ、文章論を中心とした著作で、総論および文例から構成され、流布本と広本がある。そのうち広本に収載される文例に、「くになし(国作)」として掲げられる『出雲国風土記』意宇郡・郡名起源―いわゆる国引き詞章―がある。同記事は、風土記についてまとまった著述のない真淵の風土記研究を考える上で、注目すべきものである。第一に、真淵が所持していた『出雲国風土記』(以下、『出雲』とする)写本の概要が窺える点である。真淵が『出雲』写本を有していたことは、『祝詞考』『祝詞解』などの著作における引用や、狩谷棭斎旧蔵本『出雲』の奥書などから窺えるが、写本自体は現存しない。そのような中、この『文意考』所引国引き詞章や『祝詞考』等の引用は、真淵所蔵『出雲』写本の概要を推定しうるものといえる。第二に、真淵による国引き詞章の訓読が示されているが、その訓みには、真淵の師である荷田春満の『出雲風土記考』との関連が窺えるとともに、両者の国引き詞章をめぐる解釈の相違が浮かび上がってくることである。そして「上つ代にこそことばのあや(文)あざやかにしてみやびたり」(『文意考』広本・総論)と説く真淵は、国引き詞章について「風土記は、其国郡に仰こと有て、上つ代より伝れる古事をはじめて、時にあることをもしるさせ給へれば、此類の文はいとも古き代より伝はりしこと也」(『文意考』同条)と評するが、これは真淵同様、風土記に関する著作のない本居宣長が、国引き詞章を「其文いとも〳〵上ツ代の雅言なり、心留めて読べし」(『古事記伝』)と評し、「出雲風土記意宇郡の名のゆゑをしるせる文」(『玉勝間』)として、風土記の中で唯一、注釈を為したことに連なるものである。 本発表では、『文意考』所引『出雲国風土記』国引き詞章をてがかりに、真淵の風土記研究や風土記観を明らかにする。 |
上代文学会秋季大会シンポジウム御案内【ハイブリッド開催】参加費無料 | |
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日 時 | 二〇二三(令和五)年十一月二十五日(土) 午後一時~五時 |
会 場 | 二松学舎大学 九段キャンパス 九段一号館 八〇七教室 Zoomを使用したオンライン参加もできます。オンライン参加を希望される会員の方は案内状の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。 対面でご参加の方はお申し込み不要です。当日会場で発表資料をお渡しいたします。 ※今後のコロナ感染状況によりましては、全面オンラインとなる場合もあります。HPで最新情報をご確認下さい。 |
テ ー マ | 『万葉集』巻十六の諸相 近年『万葉集』巻十六に関する論考が盛んに発表されており、巻十六研究の機運の高まりを感じさせる。こうした現在の状況は、巻十六の研究の基礎がより充実し強固となることが期待される。 巻十六は物語的題詞・左注をもつ歌々が多いのが特色であり、そこには漢籍的知識を応用した語・表現などが散見する。また、条件・状況が多岐にわたる様々な宴席歌や、雅から離れた俗の世界を強く感じさせる戯笑歌、地方の民俗や文化を伝える歌々が収められることも、その特徴といえよう。こうした広範な多様性を内包することが、巻十六の魅力ではないだろうか。 巻十六は『万葉集』の世界の広がりを知るうえでも貴重な存在であり、また後の文学史へのつながりも視野に入る重要な巻である。研究基盤が強固になるこの機会に、さらに巻十六研究の可能性を探りたい。 |
パネリスト及び講演題目 |
巻十六 いま何が問題か 東京大学名誉教授 多田 一臣
『萬葉集』巻十六の伝云型左注について奈良女子大学教授 奥村 和美
歌文化の多様性と重層性 ――『万葉集』巻十六から見る万葉史――日本大学特任教授 梶川 信行
(司会 フェリス女学院大学教授 松田 浩) |
発表要旨 | |
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巻十六 いま何が問題か 東京大学名誉教授 多田 一臣 巻十六について、これまで、いくつかの書物や論を公表してきた。①『万葉集全解 6』(筑摩書房)は、巻十六全体の注釈を含む。さらに巻十六について、まとまった考察を加えたものとして、②『『古事記』と『万葉集』』(放送大学教育振興会)、③『万葉樵話』(筑摩書房)がある。「安積山の歌」(三八〇九)「乞食者詠二首」(三八八五~六)「怕しき物の歌」(三八八七~九)などについても、個別の論を発表している。「志賀の白水郎の歌」(三八六〇~六九)についての論も、近々公表を予定している。 そのようなわけで、これらの書物や論を前提としながら、巻十六で、いま何を問題とすべきかについて、お話ししてみたい。以下、箇条書風に示すが、限られた時間ゆえ、すべてに言及できないことを、予めお断り申し上げておく。 Ⅰ 巻十六冒頭の標題「有由縁幷雑歌」をどう見るか。「幷」の有無がまず問題となる。この巻の歌すべてに「由縁」が付随していると見るべきなのかどうか。さらに「雑歌」とは、どのような意味なのか。 Ⅱ 物語的な左注や題詞を、文学史(表現史)の上でどのように捉えるべきか。和文体の歌物語の始発としての意味を、ここに認めることができるのかどうか。 Ⅲ 宴席の戯笑歌、さらには物名歌、無心所著歌をどう評価すべきか。上の②③では、そこに「非(反)万葉」的なありかたを認めて、そこから反対に和歌の本質が明らかになるのではないかと述べた。字音語などの語彙の特異性にも注意される。 Ⅳ 「竹取翁歌」(三七九一~三八〇二)「志賀の白水郎の歌」に、山上憶良はどこまで関与していたのか。 Ⅴ 地方の歌・芸謡(「乞食者詠二首」)・呪歌(「怕しき物の歌」)をどう捉えるか。 まだあるが、とりあえずこの範囲内で、お話ししてみたい。 『萬葉集』巻十六の伝云型左注について 奈良女子大学教授 奥村 和美 『萬葉集』巻十六には、左注部分に「右」「右歌」「右○首」「右歌○首」で歌を指した後、「伝云」と続く形式の文が散見し、冒頭から二十首に見られるいわゆる左注的題詞とは大きな対照をなすことが知られている。先行論では、左注的題詞に、詩序に匹敵するような文飾や強い物語性が指摘される一方、この伝云型の左注については、伊藤博論をはじめとして、その背後にうかがわれる口誦・口承の世界をどう捉えるのかということに関心が集まりがちであった。記載すなわち書く契機の重要性を主張する論もあったけれども、そのことが具体的に、左注の文章の形成や、或いはそのような左注と歌との関係の形成に、どう関与したのかということについては、まだ十分に明らかにされていないように思われる。 伝云型の左注は、まずこの「伝云」じたいが、他巻の「伝云」「語云」「伝言」などとは異なる意識で用いられていることに注意しなければならない。加えて、現在の巷間の小話をとりあげつつも時の設定をあえて「昔」とすることや、歌の作者について「姓名未詳」としたり、話題の中心人物について「名字忘」として匿名性を匂わせることなど、中国の人物伝、志人・志怪小説、故事逸話集などの叙述形式を巧みに利用して、話を面白くしようとする操作の跡の読み取れる箇所が存する。歌は、そのようなどこか虚実の定かでない設定に置かれることで、いっそう読み手の想像力に訴え面白く享受できるように仕組まれている。 本発表は、『萬葉集』巻十六の伝云型左注のもつ、そのような作為性ひいては虚構性の一端をいくつか具体的に指摘し、単なる歌の成立事情の説明にとどまらない左注の表現の内実を明らかにする。そのことを通して、歌の「由縁」とは何なのか、歌が「由縁」とともにあるとはどういうことなのか、あらためて考え直してみたい。 歌文化の多様性と重層性 ――『万葉集』巻十六から見る万葉史―― 日本大学特任教授 梶川 信行 四期区分説に基づいて「和歌史」を見据えることが、昭和の頃から常識とされて来た。御代別に歴史化された巻一・巻二が『万葉集』の根幹であって、持統朝の人麻呂によって、和歌の世界が大きく飛躍し、平城京の時代に個性の花が開いたとする万葉観である。すなわち、著名歌人たちによる発展の過程として「和歌史」を描くことが常道とされて来たのである。しかし、巻十六の世界は、そうした見方が必ずしも妥当なものではないということを教えてくれる。 巻十六は、「物語的な題詞や左注をもつ歌」(三七八六~三八一五)、「宴の場を主たる背景にもつ戯笑歌」(三八一六~三八五九)、「地方の歌、芸謡、呪歌などの特殊な歌」(三八六〇~三八八九)によって構成される(多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房・二〇一〇)が、その中の「戯笑歌」群は、藤原京や平城京の官人層の日常の姿を反映しているものであろう。すなわち、整序された晴れの歌々がヤマトウタ(長歌や短歌といった特定の歌体を指すのではなく、五七音を基本とした歌のすべての謂である)の通常の姿ではなく、「戯笑歌」群のような褻の歌々こそ、その常態だったと考えられる。晴れの歌々は氷山の一角に過ぎず、その水面下に氷山の何倍もの巨大な氷塊があるように、その底流には「戯笑歌」群のごとき、豊かな言葉遊びの世界が広がっていたのであろう。 このように、「戯笑歌」群の存在に焦点を当てて、古代のヤマトウタの世界を見つめ直してみると、従来とは違った文学史が見えて来る。それは実態としての「和歌史」ではなく、『万葉集』というたった一つの歌集から見える「万葉史」である。「戯笑歌」群には、無名の下級官人ばかりでなく、皇(王)族などの上級貴族や渡来系の人たちの姿も見える。古代社会なりのダイバーシティーだった。著名歌人中心の「和歌史」からダイバーシティーの「万葉史」へ。巻十六の「戯笑歌」群の存在は、万葉観の根本的な転換を示唆しているように思われる。 |
上代文学会秋季大会研究発表会ご案内【ハイブリッド開催】参加費無料 | |
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日 時 | 二〇二三年(令和五年)十一月二十六日(日)午後二時~午後四時十五分 |
会 場 | 早稲田大学 戸山キャンパス 33号館3階 第一会議室 Zoomを使用したオンラインでのご参加も可能ですので、遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。 オンライン参加を希望される会員の方は、郵送された参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。 後日、ZoomのURL、発表資料などをメールでお送りいたします。対面でご参加の方は、事前お申し込み不要です。 当日会場で、発表資料をお渡しいたします。 |
研究発表 |
大国主神の視座― 『古事記』の工夫と『出雲国風土記』による受容― 早稲田大学大学院教育学研究科博士課程 齊木 果穂
(司会 都留文科大学准教授 小村 宏史)
出雲から見た国譲り福岡女学院大学名誉教授 吉田 修作
(司会 明治大学准教授 伊藤 剣)
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発表要旨 | |
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大国主神の視座―『古事記』の工夫と『出雲国風土記』による受容― 齊木 果穂 『出雲国風土記』は、神田典城や松本直樹によって、『古事記』『日本書紀』の神話を享受し、そのうえで出雲独自の主張を描いていると指摘されている。『出雲国風土記』意宇郡母理郷条にも、記紀の国譲りの影響を受けつつ、オホナムチが「但八雲立出雲国者 我静坐国 青垣山廻賜而 玉珍置賜而守」と出雲一国の守護を宣言する点に独自の主張がみられる。当該条に対し、倉野憲司は「出雲氏族の拔き難い政治的・宗教的勢力の存在」を背景とした「出雲國だけは治外法權的取り扱ひをするといふ宣言」と指摘する。いずれも当を得た見解である。 ただし、この「治外法權的」な出雲側の主張は、記紀が描く国譲りの文脈に抵触しかねない内容である。記紀において、あくまでも被征服者側に置かれた出雲が、中央に提出する「風土記」でこうした主張をすることができた背景には、大和政権にとっても認めざるを得ない根拠が記紀の内部にあったのではないだろうか。 『日本書紀』天孫降臨章(第九段)に描かれる国譲りからは、正文・一書ともにオホナムチによる「治外法權的」な出雲支配の根拠を読み取ることはできない。一方で、『古事記』の国譲り条には、大国主神(オホナムチ)が葦原中国を「献」る代わりに宮の造営を要請し、その要請の達成の有無が明示されずに国譲りがなされるなど、曖昧な点を残した箇所がある。この曖昧さが果たして『古事記』の不備なのかどうかも含めて、新たな解釈の余地があると考えている。 本発表では、『古事記』の大国主神の国譲りの場面における発言を整理し、大国主神の視座に立って国つくり・国譲りを捉え直すことで、出雲と葦原中国を区別する同神の意識を読み取ることができることを指摘する。そこに、出雲の神を利用して出雲を「辺境」に位置づける『古事記』の工夫と、「治外法權」を主張する新たな国譲り神話を創作した『出雲国風土記』の主張の根拠があると考える。 出雲から見た国譲り 吉田 修作 出雲風土記意宇郡母理郷では、天の下造らしし大神オホナムチが越の一部を平げて帰還なさる時に詔りたもうたことは、「我が造りまして治める国は、皇御孫命の平けく世を治めよと依さし奉らむ。但し、出雲国は我が静まり坐す国と青垣を廻らして玉置き賜ひて守りたまはむ」と言われた、故に文理と言うとある。これは古事記・日本書紀の所謂国譲り神話を踏まえながら別に展開させ、オホナムチや出雲を強調しクローズアップさせたものである。古事記・日本書紀ではタカミムスヒ・アマテラスなどが主体となる「依さし」がここではオホナムチの行為とされ、そのオホナムチが「国作り」でなく「天の下造らしし」との語句を冠し、出雲国はオホナムチが静まります国とするなどとある。「天の下」は古事記・日本書紀では基本的に「天の下を知ろしめす」などと代々の天皇に冠して使用されることが多い。これらのことは出雲の倭王権に対する反発や越権というよりも、意図的な表現と捉えるべきである。 今一つ古事記・日本書紀の国譲り神話の前段階として差異が見られるのは、出雲国造神賀詞における天上界からの使者アメノホヒの行動である。古事記・日本書紀において最初に天上界から遣わされたアメノホヒは、オホナムチ(オホクニヌシ)に「媚び」て復奏しなかったとあるが、出雲国造神賀詞では天上界から派遣されたアメノホヒが「国形見」として葦原中国の様子を見て天上に報告し、その子がオホナムチを「媚び鎮め」たとする。アメノホヒは出雲国造の遠祖などとされるから、出雲国造神賀詞でクローズアップされるのは当然で、古事記・日本書紀における扱いに対して比べようもなく大きい。そして、それらを倭王権が容認していることも認められる。アメノホヒに関して言えば、日本書紀神代紀一書ではタカミムスヒがオホナムチに国譲りの見返りとして宮の造営を約束し、アメノホヒにオホナムチの祭祀をするように司令する記事がある。その神代紀を踏まえた記事が出雲風土記楯縫郡に見られ、そこではタカミムスヒではなくカミムスヒの詔とあり、楯縫の地名由来譚として伝えられている。 このように、出雲国風土記、出雲国造神賀詞において古事記・日本書紀とは別の国譲り神話が垣間見られるが、そのような言説が出雲側に何故に必要だったのか、また倭王権側がそれを受け入れ容認したのは何故か、各テクストの表現分析を通して、倭王権と出雲との関係性も含めて考える。 |
二〇二四年度(令和六年度) 上代文学会 七月例会 ご案内 | |
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日 時 | 二〇二四年(令和六年)七月二〇(土)午後二時~午後三時三〇分 |
会 場 | Zoomによるオンライン開催 参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。折り返しURL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。 |
研究発表 |
『古事記』四番歌「ヤマトノヒトモトススキ」の解釈
國學院大学教授 谷口 雅博
(司会 千葉大学教授 兼岡 理恵)
○研究発表終了後、常任理事会(Zoomによるオンライン開催)を開催します。 |
発表要旨 | |
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『古事記』四番歌「ヤマトノヒトモトススキ」の解釈 國學院大學教授 谷口 雅博 『古事記』の歌の中に見られる「ヤマト」は皆「夜麻登」と表記され、その示す範囲に相違がある可能性を孕みつつも、いずれも地名のヤマトを指している。それゆえ、本発表では四番歌の「ヤマト」を地名「倭」と考える。その場合、当然ながら散文部の「倭国に上り坐さむとして」との関係性を検討する必要がある。「倭国に上り坐さむ」としつつも、結局は出かけずに出雲に留まったと描くこの神話の展開は、大国主神が、後の天皇支配の中心地であるヤマトのみは領有出来なかったことを主張する『古事記』編者の意図を示すものであるとの理解があり、発表者もこれまで同様に考えてきた。しかし、後の大国主神の国作り神話、及び中巻・神武記の東征、崇神記の祟り神祭祀も併せてみたときに、上巻の神話世界においてヤマトが天皇支配の中心地として先んじて別格の扱いを受けていたとは考えがたいのではないか。むしろ八千矛神(大国主神)が領有する「ヤシマグニ」の中に「倭」も含まれることを積極的に示すのがこの歌と散文部の意図するところであったのではないか、と結論付ける。 |
令和六年度 上代文学会秋季大会研究発表会・一月例会研究発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(兼岡理恵・倉住薫・三田誠司・森陽香・渡辺 正人)まで、メールアドレスへ電子メールにてご連絡ください。秋季大会研究発表会は一一月一〇日開催、申込締切は六月三〇日です。一月例会は令和七年一月一一日(土)開催、申込締切は九月一〇日です。なお、発表の採否については、常任理事会にて発表要旨をもとに審議・決定致します。
reikai@jodaibungakukai.org
二〇二四年度(令和六年度)上代文学会一月例会 ご案内 | |
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日 時 | 二〇二五年(令和七年)一月十一日(土)午後二時~午後四時三〇分 |
会 場 | Zoomによるオンライン開催 参加を希望される会員の方は、案内状に記載の参加申し込み方法をご覧の上、事前にお申し込みください。折り返しURL等、参加に必要な情報を返信致します。遠方の会員の皆様もぜひご参加ください。 |
研究発表 |
雲隠る雁 ―『萬葉集』におけるカクルの認識方法から―
明治大学大学院博士後期課程 竹下 太崇
(司会 筑波大学助教 茂野 智大)
医療表象文化からみる黄泉国神話の位置づけ
関西大学東西学術研究所 毛利 美穂
(司会 都留文科大学准教授 小村 宏史)
○研究発表会終了後、常任理事会をオンラインで開催します。 |
発表要旨 | |
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雲隠る雁 ―『萬葉集』におけるカクルの認識方法から― 竹下 太崇 従来の先行研究は、見るという態度の表れとしてカクルを捉えるが、見ることとカクルの関係についての議論は十分ではなく、聴覚とカクルの関係についても考察されていない。本発表は、視覚に関わるカクルの相(アスペクト)を分析することで、見ることとカクルの関係、さらに聴覚とカクルの関係を明らかにし、一七〇三番歌の「雲隠る雁」の認識方法とその認識がどのように受容されたかを述べる。 内田賢德氏(「見えないものの歌」)が「視野にあったものが見えない領域へ消えること」と述べるように、変化を伴う動詞としてカクルは理解される。アスペクトの分析からも、①ある主体がカクル存在を視覚にて認識する(見ること)、②具体物が見ることを遮り、対象を視認することが困難になる、③完全に対象を視認できないがそれでも見ようとする、という三段階の変化を経てカクルは成立することが分かる。すでに隠れている状態を表すカクルの例もあるが、変化と状態を表すカクルのどちらにおいても、以前に視認した対象を隠れて見えない内側に想像する点は共通している。 一方で聴覚を用いた「カクル」では、聴覚により視認できない対象の存在を「認識」する。カクルの①段階目を聴覚を用いて実行する。視覚を聴覚に転化した表現といえるだろう。 この聴覚を用いた「カクル」は「雲隠る雁」の歌に集中する。「雁が音」のみ聞こえ、視認したくとも視認できない雁をまるで見るかのように「カクル」と表現するのである。一七〇三番歌の「雲隠る雁」から始まる聴覚をもって見ようとする認識方法は、大伴家持の「見二帰雁一歌二首」にも受け継がれている。 | |
医療表象文化からみる黄泉国神話の位置づけ 毛利 美穂 黄泉国神話では、イザナキが黄泉国から逃走する際に投げるものとして、エビカヅラ・タカムナ・モモが登場する。中尾瑞樹氏は、『古事記』黄泉国神話のこの三つの植物について、『大同類聚方』の用例をふまえて薬草であると同定し、黄泉国に薬草が生えることと、中国の「黄泉」との関係から、三つの植物における古代的薬理を示すことで、黄泉国を「医薬の国」と解した(中尾瑞樹「『古事記』黄泉国神話の医療人文学的考察」水門の会神戸例会、2017他)。 『古事記』では、三つの植物は同列ではなく、「エビカヅラ・タカムナ」と「モモ」の二つに分類することができる。すなわち、エビカヅラとタカムナは、イザナキの身体性から「投棄」されることで「生」るものとして存在し、その生成には、イザナキの主体性が強調される。この違いをふまえて、医書などからエビカヅラとタカムナの本草的側面をとらえると、『神農本草経』に、エビカヅラは「久食、軽身、不老、延年」、タカムナは「通神明、軽身益気」とあり、エビカヅラとタカムナには仙術につながる「軽身」の表現がみえる。このことから黄泉国神話を読むと、医薬を投じられたことによりヨモツシコメたちはパワーアップしたのであり、黄泉国が活性化することで、高天原の三神を生み出すイザナキの力が蓄えられたと解することができる。 |
令和七年度 上代文学会例会・秋季大会研究発表会 発表者募集
発表をご希望の方は、例会係(兼岡理恵・倉住薫・三田誠司・森陽香・渡辺 正人)まで、下記メールアドレスへ電子メールにてご連絡ください。次年度例会は七月・一月に開催予定、申込締切はそれぞれ四月一〇日・九月一〇日です。秋季大会研究発表会は十一月に開催予定、申込締切は六月三〇日です。なお、発表の採否については、常任理事会にて発表要旨を参考に審議・決定致します。
reikai@jodaibungakukai.org